飲まずにいられない

流れ流れてたどり着いた東京の片隅で現在や過去や未来ん中から幸福のカケラを拾い集めては言葉にのこしていく単純な作業の場所

写真を撮ることと、ことばを記すということ

最近、拙の周囲では写真がちょっとしたブームになっている。フォトログにする人もいれば、自分で焼いて楽しむ人もいる。彼らは、一緒に歩いている時にいきなりいなくなってしまったかと思うと、ずっと後ろのほうでなにかを熱心に接写していたりして。楽しそうだな、と思う。

拙も写真は好きだ。有名無名な作家さんたちの写真展にはしばしば足を運ぶし、自分でもちょぼちょぼと周囲を撮影している。


そうやって先日も自分の手もとにあるビールとか、料理とか、町並みをファインダごしに狙いながら、ふと、あたしはなにを撮りたいんだろうと考えた。


あたしは被写体を「記録」したいわけではないようだ。そこにいて、空気を吸って、それを見つめた「記憶」を切り取って、そこにいた自分の思いとともに、誰かに伝えたいのだ。偶然すばらしいものが撮れるほどの腕はないし、偶然を感じ取れない愚鈍さを他人に悟られるのは、はずかしい。


食べかけのパンに残る歯型。さめかけたコーヒーの空ろな湯気。薄暗い部屋のテーブルクロスに残ったふるいシミ。人を撮るなら顔じゃなく腕や背中、足先。全体を俯瞰するなら、その場所の色とにおいと感じた思い。そういうのが観たいし、撮りたい。


拙が個人の場として「ブログ」形式をあまり好まないのも、その意味が「記録」だからなのかもしれない。受け手のスキルに委ねない発信元でありたいと、小心者のピグレットは小さいなりに理想値でっかく、切磋琢磨。