2007年のカップヌードル
節分明けの日曜日は朝からバカみたいに晴れていてあまりの脳天気な明るさに苦笑しながら寝ぼけ頭をインスタントコーヒーで起きあがらせ仕事籠りするための飲み物を調達するためぶらぶらとコンビニまで出かければ深く呼吸をするごとに東京に出てから今日までの出会いや別れ美味や苦み酔いや目覚めのあれやこれやが頭の中に蘇り再び苦笑だってこんなにも色々なことがあったのにしれじれとわたしはまだ生きているし明日もきっと生きていくのだと思うと。
ジャスミン茶のまずにいられない。仕事が終わるまではそのままで、仕事が終わったら温めて、杏のお酒を入れて飲もう。
体調や心調を崩しているうちに、仕事の締めきりがせっぱ詰まってきた。今日こそまとめて片付けなければ。チクテカフェで先週偶然手に入れた、東京一おいしいマフィンをトーストし、チクテのハチミツとバターをつけて朝食。しかし頭はなかなか冴えず、ぐずぐずしているうちに正午になってしまい、再び小腹が空いた。
きょうの昼飯はどうしてもカップヌードルでなければならないような気がしていた。昨晩読んだ「コーヒーもう一杯」という漫画のシーンが印象に残っていたからだ。本作は一杯のコーヒーをめぐる小さなヒューマンストーリー集で、一話一話は、コーヒーを飲みきる前に読み終えてしまうほどの短さだが、いずれも味わい深く、ちょっと切ない。
ある話で、闇タイムマシン屋に時間旅行を依頼するふたりの若者が登場する。彼らは1983年に戻ってYMOの散解コンサートを体験して、思い出となるレコードやいろいろな品を買いたいと思っている。そのために倹約を重ねているふたりの常食が、カップラーメンだった。
貧しさのアイコンと言っても過言ではないカップヌードル。しかしそれを啜る彼らはちっともみじめったらしくない。希望に向けた、すがすがしいばかりの光景だった。
拙は、ひとりがこわくて仕方ない。夜など、パニックを起こしそうなほど不安になる。体も弱っている。収入も怪しい。しかし怖がって酒浸りになっているうちにも日はのぼり日は沈み、人の心は移ろい、物価は変動していく。どんな些細なことでもいいから、なにか先のものを見つめていけば、なんとか生きていけるかもしれないと思う。
だからきょう、わたしはカップヌードルをすする。大きな音を立てて。汁も残さず。